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3.25.2016

Nū Hou Hālau / 蘭写真集-6

Lei Making Workshop

6月にHō'ikeを控えて、Lei MakerタカコさんとMaileのクラスのボランティアでLei MakingのWorkshopが行なわれた。


KalākauaではイミテーションのLeiを一切使用しないため、ステージに上るためにはまずLeiを自分で作らなければならない。そのために今回は初心者を対象としたWSが行なわれた。
皆、土曜日の午後ぞろぞろと集りだした。
WSのかたわらではHo'okahi(Kalākaua専属のmusician)の練習が始まっていた。BGMつきのWSだった。

3.18.2016

Nū Hou Hālau / 蘭写真集-5

Hālauの孫達?

内地に帰ってしまったN.マリコが子連れで、ひょっこりHālauに来てくれた。しかも只今子育て奮闘中で、Hālauをお休みしているK.アサミやKa papa Pualokeに復帰したT.ミナともども子連れでやってきた。三人とも元Maileのクラスで、何度もWorld Invitational Hula Festivalへ出場し、ともに汗と涙と勝利の喜びを分かちあったOhana達だ。



私はWorld大会へ向けての厳しい練習中に何度となくこう言ったものだった。
「皆、今は学校や仕事や生活で大変だけれど、独身の今だから出来る事!! 大会の練習も苦しいけれど、これが結婚して赤ちゃんが出来たら子育てで自分の時間はなくなるのよ。当分、Hulaも出来なくなるかもしれないし、大会なんてとんでもないって事になるから。今は大変だけれど、Hulaが好きだったらHulaの本場での大会(競技会)に出場して、ハワイのチームと競いあう栄誉を是非体験して欲しい。幸いにもHālau Hula Kalākauaにはそのチャンスがあるの。だからそれをつかんで!!」と。


マリコもアサミもミナも口を揃えて“Kumuの言った通りになった”と言った。
三人とも、あの時に思いっきりHulaにうちこんだのだった。そうしてHawai'iでの大会や、Hulaにまつわる地を尋ねてあちこちを探索した思い出や、大会の衣装を染めたり、ohe kapalaしたり、縫ったりした事は彼等の人生の中に色濃く残ることだろう。
Hālauで出会った友は一生の友になる。それはお稽古の大変さの中で、その人の感情や性格があらわになるから。おのずと仲間が出来て、それは強い絆で結ばれる。
こうしてマリコが遠方から尋ねてきても、皆揃って子連れでHālauに来てくれる。
そうしてHālauにいるOhana達も、Leiとハグで皆をこころよく迎えるのである。
こういう光景を見ていて、Uncleから任されたこのHālauを守るという仕事につけている自分がどんなにか幸せであるという事を痛感する。ありがたい事!!


彼等を迎えてとっさに“Lanakilakeikiahiali'i”のOliが口から出ていた。皆もそれに唱和してくれた。
マリコはUncleと私とPoliに香りの良いTube-RoseのLeiを作って持ってきてくれた。
たったの2泊3日の子連れの旅で忙しいだろうに、Leiまで作ってきてくれ、Ka papa MaileとAwapuhiとPualokeのクラスにそれぞれお土産まで持ってきてくれた。そのマリコの気遣いに心から感謝したいと思います。(顔を見せてくれるだけで嬉しいので、次回からは気遣いなく!!)


3.11.2016

Nū Hou Hālau / 蘭写真集-4

本が届いた!!

迅速に行動して下さったミユキさんのおかげで、例の本は3月の声を聞く前にHālauへと届いた。
予約出来た皆は大喜び。



なんと山根教授はミユキさんと私とPoliには無償で本を送って下さったうえ、Hālau用にも1冊贈呈して下さった。(買えなかったOhanaに貸し出す予定)
そのうえ、3人への中表紙には教授自筆のサインまでして下さっていた。“キャ~うれしい!!”


そして3人へはもうひとつプレゼントがあった。それは素敵な絵を描かれる奥様の描いた(本の裏表紙を飾っている)絵の入ったトートバッグだった。
ミユキさんにだけならわかるが、何もしなかった私とPoliにまで気を遣って下さった山根教授は、まるでUncle Georgeのように愛をふりまく方だった。


以前の本よりはひとまわり大きくなり、英語文も入っているので、とても勉強になりそうだ。


かくしてミユキさんがキューピットになり、私と山根教授が又つながった。何て幸せ!!
早速、教授にお礼の手紙と近況を書こう!!



Donation

ミユキさんからOhana会へ“本を買ってくれたOhanaに感謝を込めて”金¥1,000他をDonation。
尚、山根教授はUncleの生前はUncle基金へ、そして現在はメリーモナーク委員会へ、すべての本の売上を寄付なさっている。本当に奇特な方だ。Uncleにかわって私からも感謝致します。

PoliはPlaza Houseのテナント親睦会でカラオケ1位になり、見事金¥5,000をゲット。それをOhana会へDonation。さすがPoliだ。ふところ広いね。ついでにおなかも大きいねぇ~。

3.04.2016

Nū Hou Hālau / 蘭写真集-3

Uncle's B.D Week
2016年2月23日(火)
F.ミユキさんがHālauに入ってくるやいなや「Kumu、山根教授と連絡がとれて“アンクル・ジョージが教えてくれたこと”の本があと40冊あるそうですよ。ただ、前の仕様とはちがってハワイの人達からの要望で英語でも書かれているそうです」とおっしゃるので、私は即“40冊全部購入するので送ってもらって”と答えた。
案の定、Ho'oponoponoの際にミユキさんがその本の話をしたら、その場で25冊、次の日の最初のクラスで15冊、これで40冊の予約は完了となった。その後のクラスの人達はくやしがっていた。以前この本が出版された時にはHālauでまとめて注文したので、古くからいる人は全員この本を持っているが、新しいHaumāna達は持っていなかったので、予約できた人はミユキさんの行動力に感謝していた。

そしてミユキさんのおかげで“気になっていた事のひとつ”が解決した。
それは2008年のUncleのB.DにプレゼントしたHālau全員が必ず一針は縫った(小さな子供達は大人が手をそえて手助けをした)ハワイアンキルトのベッドカバーの行方だった。
キルト全体の構想は私がした。クラスの名前の花々をモチーフにして、それらを各クラスが仕上げてゆき、それを大きな土台の布に散りばめ、枠のデザインをつけ、そして芯を入れキルトにした。
その製作は1年以上かかったと思う。特に全体のキルトをするために、皆仕事帰りや週末の空いた時間をみつけてはHālauに来て、せっせせっせと針仕事にいそしんだ。






そうして作りあげたハワイアンキルトは2007年のHō'ikeのステージを飾った後、私とPoliがHawai'i島のHilo(その頃はKonaからHiloへ移り住んでいた)のUncle Georgeのお宅へと届けた。
Uncleは全員が携わって作られたキルトを見て、目を細めとても喜んでくれ、すぐさまそれまでUncleのBedにかけられていたベッドカバーをはずし、我々の持ってきたベッドカバーへ替え(もちろん我々が手伝った)、ついでに部屋のディスプレーまで替える大仕事になった。(この模様は2013年8月16日のブログをご覧下さい。)
かくしてUncle Georgeを大喜びさせるB.Dプレゼントとなったのだが、Uncleの亡き後、あのキルトはどこにいったのだろうと皆の心の中に疑問が残っていたのだったが、F.ミユキさんの出したメールに山根教授が書いた返事の中にその答えがあった。UncleのB.Dを目前にして、まるでUncleが山根教授に乗り移って返事を書かせたような気がした。しかもF.ミユキさんが山根教授を捜し出したあたりから、不思議が始まっている。こういう偶然もあるものだ。
さてキルトの行方がどうなったかというと、…。Uncle Georgeは我々の作ったキルトに包まれて最期を迎えたという事だった。私達の愛と一緒に旅立ったという事を知り、最高の結果だと思った。
Uncle Georgeはずっと私達と一緒にいるのだ。すばらしい結末に身震いさえした。
私達が案じていた事をさとって、山根教授を通じて、私達に知らせてくれたのであった。

Uncleにハワイアンキルトを持っていった時、彼は今までの写真を切り貼りして、障子大の大きなボードを3枚製作していた。(1946~2008年までの写真の集大成ともいうべきもの)
そのボードのアンクルが書いたタイトルの左側に大きくアンクル、私、Poliの写真が貼られていて、どんなにかUncleに愛されていたのかを知って幸せに感じたのを覚えている。
Uncleのお葬式の2日間(ヒロ市内の大きな体育館で行われた)、Uncleの作ったこのボードが正面玄関に飾られていたのも記しておこう。
HālauのHaumāna達の写真もいっぱい貼られていた。