Poliは私の元に20年以上いる。
2000年にUncle George Na'ope師から私がKumu Palapala(Kumu Hulaの認定証)をいただいた時、Poliも師のHālauのUniki(卒業)の証(Kahiko部門とAuana部門の両方の証)をいただいた。そして師の指名で私のAlaka'i(一番弟子、Hālauのリーダー)という役目を与えられた。
正直な所、私には驚き(ショック)であった。何しろ、その頃は今よりもお互いそりがあわず、しょっちゅうケンカばかりしていた。もちろん口論のことで、いまだかつてお互いに叩きあったり殴りあったりした事はない。(だってこんなに可愛いTinker-Bellちゃんを叩ける殿方はいるわけない、ウフッ。でも時として私の足の指に魔法瓶を落とす“あれ”はわざと?)冗談はさておき、Uncle George師の決めた事にさからえる訳はないので、ずいぶん長い事、私なりに我慢をしてきた。
最近になってこの話をしてみると、Poliも“こんな我がままな人の補佐をするなんて出来っこない”と思っていたらしい。この頃やっとお互いが見えてきて、議論しあっても妥協点を見つけ、それらを解決することが出来るようになってきている。二人とも少しは成長したのかもしれない。(あるいはUncleが仲良くさせるように仕向けているのかもしれない)
二人の唯一の共通点は、ピーターパン症候群という病気持ち。かなりの重症だ。二人ともまったく子供のまんまである。Poliは8才、私は13才、この年令で精神がストップしているからやっかいなのだ。でも、大人にならない二人だから男と女、性別が違ってもうまくいっているのかもしれない。
Kumu HulaとAlaka'iという役割をそれぞれ与えられ、この14年間二人して築いてきたHālau。
Uncle George師はやはりKahuna(ユタのような人)で未来が見えていたのだ。
PoliがAlaka'iで私を支えてくれたからこそ、今Hālauは存続しているけど、そうでなかったら私はとっくに「ヤーメた~ときーめた」(コレ私のお得意!!)とHālauを放り投げていたに違いない。だって私は自分の会社を持っていて、20代でBMW(外車)を現金で買えるほどのビジネスウーマンだったので、Hulaは魅力はあったけれど、それを仕事にする気はさらさらなかったのである。Hālauを始めて、いろいろな出来事に直面する度“こんな事してないで本来の自分の仕事にうちこめば、もっと楽して楽しい事がいっぱい出来るのに”と、何度Uncle George師と出会ったことを恨んだことか!!(ごめんなさいUncle、今はそうは思っていないので許してね)でもそんな事を思う度、Poliは私を叱咤激励して、私がHālauをやめることを許さなかった。何回いや何十回とそんな事があった。でも、いよいよPoliは2007年に自分の仕事を捨て、Hulaの道に生きる事を決意したので、私もそれ以降Hulaで生きる覚悟をせざるをえなかった。
Poliと私の関係は、線路の2本のレールのように決して重なる事はないが同じ距離を保ち、同じ目的地に向かって平行に進んでいく。枕木はUncle Georgeだ。2本のレールの真中にあって、しっかりその両端のレールをつかみ、2本のレールが曲がることのないように固定してくれる。
今、私はUncleへの感謝でいっぱいだ。Hulaの道があったからこそ、たくさんのHaumānaと出会え、幸せな時を過ごさせてもらっている。
そしてPoliがいなければHālauは成り立たないと思っている。頑固で自己中(自己虫??)なPoliだけれどかけがえのない存在、そして悪友だ。(Poliに感謝!!)
そのPoli、今までHālauがハワイでの大会で獲得した12個の賞のうち、ソロで4個、コンバイン(Poliが入って男女の部)で3個、あと2個は彼が歌って取っている。Alaka'iとして立派に役目を果たしている。(Uncleの目は確かであった)
Uncle George Na'ope師が2006年に出版した雑誌「Humu Mo'olelo」から抜粋。 帽子につけたLeiが素晴らしい! |
この写真でUncleが着ているアロハシャツは、生地を私が選び、Poliが縫製して、 二人でUncleのお誕生日にそれを持ってかけつけプレゼントしたもの。 記事中に“沖縄の生徒からのプレゼントの特別なカスタムメイドシャツ”と紹介されています。 長袖シャツが好きなアンクル。カフスボタンがおしゃれ! |